ベトナム軍事歴史博物館へ入館
ホーチミン廟(Ho Chi Minh Mausoleum)内部を見学できなかったことは返す返すも残念でした。とはいっても仕方ありません。ホー・チ・ミン初代国家主席の遺体を参拝するのは次の機会を待つことにします(機会があればですが…)。ホーチミン廟のあるバーディン広場(Ba Đình Square)周辺をブラついた後、ハノイでのもう一つの行ってみたい場所、ベトナム軍事歴史博物館(Vietnam Military History Museum)を訪ねることにします。
ベトナム軍事歴史博物館のある場所はハノイの中心部バーディン広場からはかなり離れています。距離にして約10km、歩いて行ける距離ではありません。バスでも行けるようですが、ベトナムはラオスと違いGrabが使えます。Grabを呼ぶことにしました。アプリで呼べば5分ほどで車がやってきました。車に乗り込んでから約20分強で博物館に到着です。料金はVND119,600(約700円)でした。
ベトナム軍事歴史博物館はかなり広い敷地に建つ巨大なコンクリートの構築物です(本投稿記事のトップ写真を参照してください)。かつてはハノイ中心部にあったようですが、2024年11月に現在の地ハノイ市の西部に移設され、新たに開館しました。入場料はVND40,000です。後で調べてみたら60歳以上80歳未満は50%割引なので、VND20,000ですが(80歳以上は無料)、外国人も実際に半額で入館できるか否かは確認できませんでした。私はVND40,000を現金で払い入館しました。
戦争の歴史を展示
この博物館はその名前からもベトナム建国から現在に至るまでの戦争や軍事に関する歴史を展示、伝えることがコンセプトです。「ベトナム」と「戦争」という二つの言葉からは「ベトナム戦争」を真っ先に思い浮かべますが、この博物館はベトナム戦争だけではなく、古代から現代に至るまでのこの地で発生した戦いがコンセプトの範疇です。
建物に入ってすぐのホールには巨大なスクリーンがあり、そこでは古代から現代に至るまでのベトナムにおける戦いがわかりやすくきれいな映像で映しだされていました。とはいってもベトナム戦争は展示の相当に大きな部分を占めています。ホールの天井からは4324の機体番号がふられた古いジェット戦闘機が吊るされています。この機体はソ連製のMiG-21で、1967年にソ連からベトナムに供与され、ベトナム人民空軍第921航空連隊で使用されました。

この機体は9人のパイロットが交代で操縦し、計14機の米軍機を撃墜したとされています。操縦した9人のパイロットのうち8人が「人民軍英雄」の称号を授与されています。4324号機自体も2015年にベトナムの「国家宝物(National Treasure)」に指定されました。機首付近に描かれている赤い星は、撃墜した敵機の戦果を示しています。
戦いの連続だったベトナム
博物館内の展示は、ベトナムの軍事史を古代から現代まで時代を追って紹介しています。この展示を見ると、ベトナムの歴史が外敵からの侵略に身を守ることの連続であったことがよくわかります。近代にいたるまでの外敵は常に北方の中国でした。紀元前から中国の支配や侵攻を受け、紀元前111年に漢が南越を征服して以降、支配は断続的に続きます。そうした中で独立を獲得、維持しようとする動きは繰り返されてきました。

938年の白藤江の戦いで呉権(ゴ・クエン)が南漢軍を破り、以後ベトナムは独立国家としての歩みを本格化させます。その後も宋、元、明など中国の王朝との戦いがあり、さらに18世紀にはシャム(現在のタイ)や清との戦いもありました。この間、幾多の変遷を経ながら概ね独立を維持してきたものの、19世紀に入ってフランスがやってきました。1858年、フランス軍が侵攻を開始します。やがてベトナムはフランス領インドシナの一部として植民地支配を受けることになります。
各地ではフランスに対する抵抗はあったものの、フランス支配は続きます。第二次世界大戦が始まると、1940年に日本軍がインドシナに進駐し、フランスの植民地支配が続く中での日本の影響力が強まりました。さらに1945年3月には日本がフランスの植民地統治機構を排除して直接統治に切り替えました。同年8月の日本の敗戦を機にベトナムでは独立を求める動きが一気に進みました。9月2日、ホー・チ・ミンはバーディン広場でベトナム民主共和国の独立を宣言します。

独立を宣言したベトナムでしたが、フランスのド・ゴール大統領はフランスの支配回復を目指しベトナムに派兵しました。第一次インドシナ戦争(抗仏戦争)の始まりです。ベトナムの苦難はまだまだ続きます。
対フランス独立戦争(第一次インドシナ戦争)
1945年9月のホー・チ・ミンによるベトナム民主共和国の独立宣言後、フランスは独立を一応は認めたものの自らの影響下に置くことを画策しました。当然のことながら完全な独立を求めるベトナム民主共和国側とフランスは対立することになり、フランスは軍を送って第一次インドシナ戦争が勃発します。

1949年、フランスはバオ・ダイを元首とするベトナム国を成立させました。名目上はフランス連合内の独立国でしたが、外交・軍事などでフランスの影響下にあり、要はフランスの傀儡政権でした。もちろん、ホー・チ・ミンのベトナム民主共和国に対抗させるためです。しかしながらベトナム民主共和国は、フランスとの戦争を続けながら、北部を中心に支配地域を広げていきました。

1954年、ディエンビエンフー(Điện Biên Phủ)の戦いでの敗北を受けてフランスは和平交渉に応じ、ジュネーブ協定が結ばれます。協定では暫定的な軍事境界線を北緯17度付近に設け、ベトナム民主共和国軍は北側へ、フランス連合側の軍は南側へ移動し、北にはベトナム民主共和国、南にはベトナム国の政権が置かれることとなりました。協定により全国選挙による統一も予定されましたが、選挙が実施されることはありませんでした。

協定後、フランスはインドシナからの撤退を進めます。南側のベトナム国では、バオ・ダイが首相に任命していたゴ・ディン・ジエムが政権の実権を握り、1955年の住民投票を経てバオ・ダイを退位させました。同年10月、ジエムはベトナム共和国の成立を宣言します。これはベトナム国からの移行で、ホー・チ・ミンのベトナム民主共和国とは別の国家です。
そしてベトナム戦争へ
ジュネーブ協定により、北側のベトナム民主共和国と南側のベトナム共和国の二つの国が北緯17度付近に設けられた暫定的な軍事境界線を挟んで対峙することになりました。フランスは協定を受けて撤退したわけですが、ここからアメリカが軍事介入するベトナム戦争に至るには、この時点での世界情勢が深く関係します。
第二次世界大戦後、ソ連を盟主とする共産主義国家群とアメリカを盟主とする資本主義国家群とは鋭く対立することになります。冷戦です。こうしちゃ状況下でアメリカは、ソ連や中国の影響力が広がることを警戒していました。1950年に中国で共産党政権が成立し、朝鮮戦争も起きると、アメリカ政府は東南アジアでも共産主義が広がるのではないかと懸念を強めます。

このためアメリカは、フランスが支援するバオ・ダイのベトナム国を支え、フランス軍への資金援助を実施してきました。1954年のフランスの撤退後も、アメリカは南側のゴ・ディン・ジエム政権を支援し、軍事顧問や資金を送り込みます。南側を反共産主義の独立国家として存続させ、北側のベトナム民主共和国による統一を防ぐことが目的です。
1954年のジュネーブ協定は、全国規模の選挙によってベトナムを統一することも予定していました。しかかし、南側のゴ・ディン・ジエム政権とそれを支援するアメリカは、北側の政治的圧力や選挙の公正さへの懸念を理由に選挙への参加を拒みます。結果として統一選挙は実施されませんでした。北側も南部で政治・軍事活動を強め、双方の対立は武力衝突へと進むことになります。
アメリカの直接軍事介入と1975年のサイゴン陥落
アメリカの関与は、当初は南ベトナム政府への資金援助や軍事顧問の派遣が中心でした。しかし、南ベトナム政府の支配が不安定になるにつれて、ジョンソン政権は介入を拡大します。アメリカ海軍の駆逐艦が北ベトナム軍から攻撃を受けたとされる1964年のトンキン湾事件を受けて米議会が大統領に軍事行動の権限を与え、1965年には米軍の戦闘部隊が本格的に投入されました。
アメリカ軍は北ベトナムへの大規模な爆撃を行い、南ベトナムでは北側の支援を受ける南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)や北ベトナム軍と戦います。米軍の兵力は増大し、1960年代後半には50万人を超えました。それでも戦闘は収束せず、戦争は長期化していきます。

1968年初頭、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム全土に対して仕掛けた大規模な攻撃(テト攻勢)を開始しました。攻撃した北側は軍事的に大きな損害を受けましたが、南ベトナムの主要都市にも攻撃が及びました。こうした中アメリカでは「勝利が近い」という政府の説明への疑念が強まり、戦死者の増加や戦争の長期化に伴って反戦世論が強まります。
議会でも戦争継続への批判が高まりました。ニクソン政権はベトナムへの爆撃を続けながらも、戦闘をアメリカ軍から南ベトナム軍に引き継がせる「ベトナム化」を進めます。同時にアメリカ軍撤退のため和平協議を行い、1973年1月パリ和平協定が成立します。協定に基づきアメリカ軍は撤退しました。
協定後も南北の戦闘は続き、停戦は定着しませんでした。アメリカ軍の撤退後、南ベトナム政府は北側との戦闘を自力で続けますが、軍事・経済面で苦境に立たされました。1975年、北ベトナム軍は大規模な攻勢を進め、南側の防衛線は次々と崩れます。4月30日、北ベトナム軍がサイゴンに入り、南ベトナム政府は降伏しました。サイゴン陥落です。

これによりベトナムの長かった戦争の時代が終わりました。振り返るとベトナムの近現代史は、フランス、日本、そして再びフランス、その後はアメリカと、外国勢力との戦いが相次いだ歴史でした。
伝えられる歴史
のんびりと博物館の展示を見ていると、同じ服を着た騒がしい子供の一群がやってきました。小学生の社会科見学なのだと思います。一応すべての展示を回っているようでしたが、見学の中心はベトナム戦争の展示でした。展示の前で引率の先生が説明しています。もちろんベトナム語なので説明の内容はわかりませんが、自国の歩んだ苦難とそれに打ち勝った歴史を教えているのだろうと思います。
愛国教育の一環と思います。ベトナム戦争の背景なりアメリカ軍の行為を次代を担う子供にどのように説明し、教えているのか。大変に興味のあるところです。博物館で見た子供たちがどんな考えを持った大人に育っていくのか。アメリカに対してはどのような感情を持つようになるのか。関心は尽きません。


博物館裏手の慰霊碑
博物館の裏手には何やら建物があります。近づいてみると、どうやら慰霊碑のようです。碑にはベトナム語で「英雄・烈士への恩を永遠に忘れない」旨が刻まれています。郡司氏の博物館ですから、こうした施設があることも頷けます。慰霊碑から見返す博物館の建物は、左右対称に美しく整っていました。


優れたデザイン性を持つ建物
軍事歴史博物館の建物自体も印象的でした。とにかく巨大な建物です。先入観を交えれば、いいかにも共産党が指導する一党制の社会主義国家にありがちな建物です。ですが、コンクリートの質感を生かした外観や面白い意匠の組み合わせは独特で、優れたデザイン性を感じさせてくれます。私にとっては、とても印象に残る建物でした。


アメリカ軍からの鹵獲物
博物館の正面前庭にはベトナム戦争時にアメリカ軍から鹵獲した種々の武器を置かれています。歩んだ苦難の歴史を鑑みれば、展示がベトナム戦争関連に集中することは自然なことだと思います。




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