旧王宮
プラハ城と呼ばれるこの一帯では、聖ヴィート大聖堂を中心にこれを取り囲むように様々な建物が配置されています。旧王宮もその一つで、12世紀から16世紀にかけて歴代のボヘミア国王が実際に暮らしていた場所です。16世紀後半にハプスブルク家が本拠地をウィーンに移してからは、主に国の行政機関や議会、土地台帳の保管場所として使用されていました。


旧王宮内に設置された暖炉
旧王宮内部にあった陶器製の暖炉です。この陶器の鮮やかな緑色は強く印象に残りました。この美しくい大きな陶器は壁沿いに設置され、薪をくべ燃やす場所は壁の向こう側です。燃焼により発生した熱風(煙)だけが暖炉の内部にあるレンガの迷路(煙道)をクネクネと通過していきます。その過程でこの暖炉は熱を持ち、置かれている部屋を暖めます。煙はもちろん壁の向こうの隣の部屋に戻って排出されます。当たり前ですが、暖炉の操作をする隣の部屋と使用人の存在が前提の暖房設備ですね。

私が特に注目したのは、この暖炉に貼られたタイルに施されたレリーフの意匠です。双頭の鷲ですね。双頭の鷲はハプスブルク家(すなわち神聖ローマ帝国・オーストリア帝国)の象徴です。チェコ(ボヘミア王国)は、1526年から1918年の第一次世界大戦終結まで、約400年間にわたってハプスブルク家の統治下にありました。この暖炉が作られた当時、プラハ城がハプスブルク家の管理下にあったことをこの「双頭の鷲」の紋章が雄弁に語っています。

ハンガリーの首都ブダペストのブダ城を訪れた際にも感じましたが、東ヨーロッパの歴史を語る上でのハプスブルク家の存在はとても大きいものがあります。こうした視点からブダ城訪問の際に感じたハプスブルク家とハンガリーの関係にについては以下の投稿記事に記しています。興味を持たれたらご一読いただけると幸いです。
旧王宮の「新土地台帳の部屋」
下の写真に写っているのは、旧王宮内のとある部屋の壁(写真の下の部分)と天井(写真の上部の大半)です。この部屋では、写真のように壁と天井の大半が様々な紋章で埋め尽くされています。直感的には当時のボヘミア王国に仕えていた貴族や騎士たちの家の紋章かなと思いました。気になったので調べて見ることにしました。
この旧王宮の部屋は「新土地台帳の部屋(Room of the New Land Rolls / Nová registratur)」と呼ばれています。1541年にプラハ城を襲った大火災によって、それまでの土地や財産の所有権を記録していた大事な古文書(土地台帳)が全て消失してしまいました。その後、新たに記録を作り直して保管するために作られたのが、この「新土地台帳の部屋」です。

壁や天井を埋め尽くしている色鮮やかな紋章は、当時この部屋で土地の登記や裁判、国の役職を担っていた歴代のボヘミア(チェコ)の高貴な貴族たちや、当時の最高裁判官、書記官たちの個人・家系の紋章です。私の最初の予想は当たらずとも遠からずといったところでしょうか。
土地を基礎とした封建制の世にあって、土地の所有権は全ての土台です。これに争いがあっては国は治まりません。一旦は消失した記録を復元し確定する。それはその当時の最重要な政治行為であったと考えられます。当時の王宮に紋章が描かれるに相応しい職務であったわけです。
旧王宮地下の展示「プラハ城の物語」
旧王宮の地下には、「プラハ城の物語(The Story of Prague Castle)」と銘打つ展示がありました。そこではチェコの歴史にまつわる重要な文物やプラハ城に関係する遺物の展示が行われています。そうした中で私の興味を惹いたのは、いくつかの彫刻でした。
下の写真の人物はどうやら匿名(無名)の石工のようです。旧王宮内の旧議会の間の北側の壁を支える梁を支える部分に装飾として施されていました(とはいってもオリジナルではなく、後代の複製のようですが)。同じ写真の下部にある像や、その下の二枚の写真に写っている魔物や人物像も全て旧議会の間を飾っていた建築パーツの複製です。



当時の生活が垣間見える「黄金の小道」
旧王宮を後に城内を東側に進むと「黄金の小道(Golden Lane)」と呼ばれる路地に出ます。大聖堂や王宮のような重厚な石造りの建築群とは全く雰囲気の異なる、まるで中世の庶民の街に迷い込んだような一角です。元々は16世紀後半、ルドルフ二世に仕えた城の防衛隊の住居として建てられたものですが、のちに金細工職人が多く住み着いたことからその名がついたといわれています。
カラフルな家々が立ち並ぶ絵のようなこの場所には、多くの伝説や神話が溢れており、多くの作家や芸術家も魅了してきました。 文豪として有名なフランツ・カフカは1916年11月から1917年3月までの約5ヶ月間ここに住んでいました。 この地の狭く静かな空間はカフカにとって理想的な隠れ家となり、本人が「奇跡のようだ」と回想するほどに創作意欲が湧いた時期となりました。現在はいくつかの家で、中世の路地の生活を示す展示が行われています。



最も中世らしい展示 – 暴力
黄金の小道に沿って建つ長屋の2階には様々な武具が展示されています。写真に写った鎧以外にも、槍、ハルバード、剣、弓、弩、これらはきっと中世の暴力シーンで使われたわけです。これら重装甲の武具が必要とされた中世の戦場は、想像する以上に凄惨で暴力に満ちた世界だったと思います。日常生活に根ざした内容だった1階の展示を見た後にこうした展示を見せられると、いい表し難い中世の怖さを感じるのでした。

黄金の小道を抜けたところに塔が立っており、中に入れるようです。通路に導かれて入ってみると、そこは牢獄というか拷問部屋というのか、なんとも悍ましさを感じさせる場所でした。様々な器具が置いてあり、こうした器具が実際に使われていたと思うと、現代人の感覚では居た堪れなさを感じます。これも紛うことなき中世の暴力を彩る一断面なのです。

後に調べてみると、この塔は「ダリボルカ(Daliborka)」と呼ばれ、1496年に防衛用の砲台塔として建てられましたが、すぐに貴族や政治犯などを収容する牢獄として使われるようになりました。ダリボルカという名前は、ここに最初に入れられた「ダリボル(Dalibor z Kozojed)」という若い騎士の名前に由来しています。
伝説によると(彼に由来するこうした物語の真偽ははっきりしません。その点を踏まえて読んでください)、彼は残酷な領主に反抗した貧しい農民たちを匿った罪で捕らえられました。彼は暗い独房の中で寂しさを紛らわせるためにバイオリンを習い始め、その音色があまりに美しく悲しかったため、城の外には毎日多くの人々が彼の演奏を聴きに集まり、食べ物を差し入れたと言われています。ある日、バイオリンの音がピタリと止まり、人々は彼が処刑されたことを知りました。



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