ヒトは移動を欲してきた
旅って面倒、お金もかかるし、もしかしたら危険な目に合うかも。
でも人は旅を欲します。日本に来るおびただしい数の外国人観光客を見るにつけ、人は移動を欲する存在なのだなと思わずにはいられません。
思いを約5万年以前に馳せれば、人類はアフリカを起点にGreat Journeyを始めました。もちろんそれは、生きるためだったのでしょう。でもその結果として、アフリカから遥か東方の島に私は生まれ、存在することができています。
現代においても、人は生きるために移動します。南から北へと、より豊かな地域を求めて彷徨います。その姿や移動の手段は変われども、必死の思いで生と豊かさを求める心情は同じではないでしょうか。
これまでの私の旅
私は壮年期からそろそろ老年期に差し掛かろうとしています。というよりは、自身を老年期に区分されることに強い抵抗感を覚える、日本に生まれ日本に居住する、ごくフツーの人間です。そして、毎日定まった時間を仕事に拘束されるという立場を、つい先頃終えたところです。
多くの人がそうであるように、これまでは長期の自由時間を得ることが簡単ではありませんでした。そんな状況に対し、時には疑問を抱き、時には逃れようと思考を巡らせ、結局は惰性に流され老年期に差し掛かる(と客観的には思われる)今になって、その立場から解放されたわけです。
私はこれまでも、多くの移動や旅と思えるものを経験してきました。その多くは仕事に関わるものです。こうした移動によって多くの国を訪れる機会を得、それぞれに得難い経験をさせてもらいました。仕事を通してこうした機会を持てたことには感謝しかありません。
もちろん仕事での移動、すなわち出張ですから、そのための費用は自腹ではありません。また、時には手厚いサポートがなされ、かかる手間は大幅に軽減されていたはずです。それでも出張、特に海外出張は面倒なものでした。
なぜ旅を欲するの?
そうした立場から逃れた今、さらに生きるに困らない日本に生まれてなお、何故私は旅を欲するのでしょうか。属する組織のサポートはもう得られません。個人での旅ですから、その面倒さは倍加するでしょう。であるのに何故?
そこに至る苦労や面倒も含め、旅で得られる経験を厭うようになることが、老年期に属することを自ら認めることになるのではないか。そんな脅迫にも似た感覚をどうしても持ってしまうのです。
面倒や苦労、さらには危険を乗り越えてこそ私はいまだ壮年期でいられる。何とも御し難い感覚なのですが、正直に述べます。この感覚こそが私を旅に誘う原動力ではないかと思っています。
旅に病で夢は枯野をかけ廻る
より正確には、若干異なります。まずは移動したい、旅に出たいという根源的な欲求が前提にあるのです。芭蕉の最後の句、「旅に病で 夢は枯野を かけ廻る」、これなのだと思います(芭蕉の句に関しては、あくまで私の解釈です)。
その上で、自らがプランニングする旅を選ぶ。パッケージツアーに参加すれば旅の障害の多くは取り除かれます。でもそれは老年期に入ってからでいいでしょう。
かくして壮年期の私は旅のプランに思いを馳せ、旅にでるのです。