世界一周 no.40 – アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所 その2(アウシュヴィッツ編)【2025年7月5日】

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ヨーロッパの鉄道の終着点、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所

アウシュヴィッツの中で見たこと、聞いたことは、千の言葉でも表しきれません。本投稿記事では撮った写真に簡単な言葉を添えるに止めます。

そして最後に「私が感じ、考えたこと」を記しました。読んでいただけたら幸いです。

以下、見るのが辛い写真や読むのが愉快でない文章が出てきます。耐性の低い方は注意してください。

アウシュヴィッツの施設

アウシュヴィッツの有名なゲートです。ここがアウシュヴィッツ強制収容所の入口に当たります。ゲートには”Arbeit macht frei”とドイツ語で標語が掲げられています。日本語では「労働はあなたを自由にする」といった意味になります。もちろん、それは嘘でした。

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アウシュヴィッツの収容所内に何の変哲もない壁があります。多くの収容者は毒ガスによって殺されましたが、銃殺された収容者もいたのです。その銃殺は、この壁を背に行われました。

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この壁に臨むと、この場所が犠牲者を悼む場であることがひしひしと感じられます。解放から既に80年が経っています。犠牲者の直接の知人がこの場を訪れることはもうないでしょう。それでも悼む人は訪れます。それは民族の記憶として残っていくからでしょうか。

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収容所に送られてきた人々

博物館内でひときわ大きく掲示されていた写真です。左下のキャプションには、1944年ビルケナウにハンガリーから送られてきたユダヤ人とあります。手前左から二人目の少年のこちらを刺すように見つめる眼差しは何を語っているのでしょうか。

このような写真を見ると、ここに送られてきた一人一人がそれぞれに生きていた生身の人間であることを強く認識させられます。

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下の写真では、1944年ビルケナウ降車場のユダヤ人家族とあります。左の女の子は何故裸足なんだろうか。その隣の男の子が杖を持っているのは怪我をしているからだろうか。右にいる白い帽子を被った二人の女の子は姉妹なのだろうか。写真に写る一人一人に対して無関心ではいられなくなるのです。

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下の写真では、1943年占領下のポーランド、スウコビツェ(Sulkowice)からのロマの人々の追放とあります。ロマとはその当時ジプシーと呼ばれ東ヨーロッパに多くいた人々です(定住民も非定住民もいました)。周りを囲む制服姿のドイツ兵とは対照的な不安に満ちた心情が伝わってくるようです。

彼らはロマの人々をその後どう扱ったのでしょうか。先頭にいるのは小さな女の子とそのお兄ちゃんでしょうか。この時の彼らは、待ち受ける運命を知っていたのでしょうか。

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収容所の中での扱い

キャプションには、1944年ガス室に追い立てられるユダヤ人女性とあります。ガス室に送り込まれる人々は男女とも裸です。それは、その後の処理を効率的に行うためでした。男女別に室内で裸にさせてガス室に誘導することが一般的でしたが、時には屋外で裸にさせ、そのままガス室に追い立てることもあったのです。

この写真は隠し撮りされて今に伝わる奇跡の写真の一枚です。野外で女性が裸にされ、ガス室に追い立てられていたのです。

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1944年屋外で燃やされる大量殺人の犠牲者の死体とキャプションにあります。また、この写真は規則に反してSonderkommandoの隊員によって撮影されたと付言してあります。燃やす作業をさせられているのは、同じ収容者です。

Sonderkommando(ゾンダーコマンド)とは、ガス室と焼却炉の運用を強制されていた人々で、
外部との接触は厳しく禁じられ、撮影などは当然死刑に値しました。この写真は彼らが命がけで隠し撮りしたものです。上の写真も同様にSonderkommandoの撮影です。

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これは写真ではなく絵です。ドイツ降伏後に開放された収容者が自らの記憶に基づいて描いたとされています。キャプションにはBeginning of torment bathsとあります。直訳すれば「拷問風呂の始まり」となります。収容所では入浴という名目で収容者を裸にし、暴力・羞恥・苦痛を与える行為が行われていました。

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下の写真では以下の内容のキャプションがポーランド語、英語、そそてヘブライ語で書かれていています。

「アウシュビッツでは収容者数の増加に伴い、1941年から新しい建物の建設が進められた。基礎掘りや資材運びなどの重労働はすべて囚人が担わされ、監視役の暴力のもとで多くの人が命を落とした。この絵は、元囚人のヴワディスワフ・シウェクが1948年に、自身の体験をもとに描いたものである。」

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犠牲者たちの遺品

障害のある人は到着後すぐに殺害され、持ち物が没収されました。この写真はそうして遺された犠牲者たちの装身具です。

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大きく名前が記された鞄の数々。強制収容所に連行されるに当たって携行が許された荷物は限られていました。人々は必要なものを選び抜き、紛失や没収を避けるために、自分の鞄に大きく名前を書き入れました。

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残された記録

収容者の記録写真です。入所時には、身元管理のために正面や側面など複数方向から撮影され、台帳に記録されました。写真の両側下部が欠けているのは、私の撮影角度が悪く歪んでしまった写真を修整したためです。

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Dr. Josef Mengele の医療実験の犠牲となったロマの子どもたちと記されています。彼は「死の天使」と呼ばれたドイツの医師で、アウシュヴィッツで数多くの非人道的な実験を行いました。写真の子どもたちが受けた苦しみは、単なる飢餓や衰弱にとどまるものではありませんでした。

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死の設備

ここに積まれている金属缶は、殺虫剤として開発された薬剤「チクロンB」の空き缶です。本来は害虫駆除に使われた化学物質でしたが、収容所では大量殺害の手段として転用されました。

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死体の焼却炉です。実際には、収容所で発生した膨大な数の犠牲者に対し、これらの設備だけでは処理が追いつかない状況だったとされています。焼却炉の能力を超えたときは収容所の敷地内に掘られた大きな溝で屋外焼却が行われた旨が記録として残されています。

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私が感じ、考えたこと

これでもかという凄惨な内容を記してきました。ここまで読んでいただきありがとうございます。なんとも言葉にしがたい感情を抱かれた方も多いのではないでしょうか。私もアウシュヴィッツでこれらの施設や展示、遺品を目にしたとき、そしてこの記事を書くために当時を思い返している今も、同じ思いを抱いています。

人はここまで残酷になれるのか。そう感じる方も多いでしょう。私が思うことは、ここでの行為に関わった多くのドイツ人も、個人として見れば隣人と変わらないごく普通の人々だったのではないかということです。しかし、個人では抗いようのない巨大な流れの中に置かれ、抗うことで自分や家族が危険にさらされる状況になれば、人は考えることをやめ、目と耳と口を閉ざし、行われていることへの関心を失っていくのだと思います。

そしなければ心が壊れてしまうからではないでしょうか。もし当時、収容所の兵士として命令を受ける立場にあったなら、拒否できたかどうか自信はありません。最初は戸惑いながら、やがては何も考えずに淡々と「職務」をこなしていくことになっていたかもしれません。生き延びるためにです。それは物理的にも、そして精神的にもです。

このような事態を避けるためにはどうしたらいいのでしょうか。個人では抗えない社会の「巨大な流れ」を生み出さないことが重要なのだと思います。歴史を振り返れば、ナチスの台頭を許したのは選挙という社会の制度の中で起きたことでした。日本の過去の戦争についても、軍部の暴走だけではなく、社会全体の空気がそれを後押しした側面があったと考えています。

過去を学び、教訓とし、抗いようのない巨大な流れが生まれる前に気づくこと。そして未然に防ぐこと。アウシュヴィッツ=ビルケナウ記念博物館の意義はそこにあると強く感じました。

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