世界一周 no.23 – バンクーバーとモントリオール、感じる雰囲気の違い

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夜のモントリオール中心街

バンクーバーとモントリオール、何が違う?

モントリオール空港に着き、公共交通機関(747番のバスですね)で市の中心街に来ました。そこからモントリオールでの宿を目指して歩いたわけです。その僅かな時間であっても、街の雰囲気が明らかにバンクーバーとは違うことに気づかされます。

例えていうなら、ヨーロッパ北部の街のような雰囲気なのです。もちろん、感覚的な話です。でも確かに違う、そこで理由を考えてみました。まずは言語です。カナダには「公用語」という概念があり、英語とフランス語が連邦レベル(カナダは連邦国家です)で公用語とされています。両言語の扱いに差はなく同格に扱われます。

では州レベルではどうでしょううか。バンクーバーが位置するブリティッシュ・コロンビア州には公用語という概念はありませんが、事実上英語がその地位を占めています。実際、バンクーバーでフランス語を耳にすることはありませんでした。一方でモントリオールが属するケベック州では、フランス語だけが公用語とされています。従って州政府が提供する諸サービスはフランス語で行われています。街中で聞く言葉もフランス語です。

住民の出身地構成にも影響

雰囲気の違いを感じるもう一つの要因は、街を歩く人の人種構成(出身地構成と言い換えてもいいでしょう)の違いです。バンクーバーは体感で東洋系が多く、モントリオールはアフリカ系が多いと感じます。そこで少し調べてみました。結果は以下の図表1です。

【図表1】バンクーバーとモントリオールの人種構成比
欧州系アジア系アフリカ系アラブ系ラテン系その他
バンクー
バー
48%45%2%0%2%3%
モントリ
オール
66%11%11%8%4%1%
出典: Metro Vancouver and City of Montreal, 2021 Censusに基づき著者が推計、四捨五入により合計が100%にならない

私の体感はあながち間違ってはいなかったということですね。バンクーバーのアジア系の内訳は、中国系が約20%、インドなどの南アジア系が約12%、さらにフィリピン系が約6%と続きます。モントリオールのアジア系では南アジア系が約5%、次いで中国系3%となります。

出身地構成の違いもフランス語に帰着

バンクーバーで中国系の人口が多い理由ですが、一つには歴史的な背景があります。19世紀後半のカナダ太平洋鉄道建設に従事した中国人労働者がバンクーバー周辺に定住しました。もちろん、バンクーバーがカナダにとってのアジア太平洋の玄関口であることも大きな理由でしょう。中国や香港、台湾からの直行便も多く、地理的にも比較的近いといえます。

これらに加えて、1997年の中国への香港返還の前後に移民ラッシュが起きました。香港の政治的な不安定を背景に、多くの香港人がカナダへ移住し、バンクーバーはその主要な受け入れ先となったわけです。さらに1990年代以降、中国本土からの移民も急増し、コミュニティの多様化が進んでいます。

また、モントリオールでアフリカ系の比率が高いのは、西アフリカや中部アフリカのフランス語話者の移民流入が大きな要因と考えられています。カナダの移民制度は「フランス語話者移民」を優遇するプログラムを持ち、ケベック州は特にフランス語能力を重視しています。モントリオールとバンクーバーの雰囲気の違いは、結局のところフランス語の要因を求めることができるわけです。

ケベック州のフランス語 – 歴史的背景

最後にはフランス語に行きついたわけですが、ケベック州(というか北アメリカのフランス植民地)の歴史から、カナダにおけるフランス語問題を掘り下げてみます。

イギリスと同様フランスも北アメリカに進出し植民地を作ります。その中心地が現在のケベック州でした。最盛期には、東はニューファンドランドから西はロッキー山脈、南はメキシコ湾まで広がる広大な領域がフランスの植民地でした(もちろんヨーロッパ人の目から見たら、です。先住民からしてみればとんでもない話、ということになるのでしょう)。

やがてイギリスといフランスは植民地の領土や権益を巡り戦争をします(北米のそれは七年戦争と呼ばれました)。結果はイギリスが勝利し、1763年にケベックはイギリス領に編入されます。ただ1774年にケベック法(通称です)を制定し、カトリック信仰やフランス民法の継続を認めました。もちろん、フランス系住民の反発を抑えるためにです。これによりフランス語文化は制度的に保護され続けました。

ケベック州の独立話

やがてカナダは、連邦国家としてイギリスから独立します。カナダ独立はアメリカとは違い、平和裏になされています。当初は自治領として、やがて主権国家として(この段階で通常の独立国と)、さらにはカナダ憲法の改正権限をイギリス議会からカナダ国内に移すことで法的、制度的に完全な独立国家となります(なんと1982年のことだそうです)。

こうした独立プロセスがケベック州独立に結び付くことは無かったようですが(アメリカ独立に際してケベックも一緒にという誘いはあったそうですが、断ったとのこと)、カナダ国内でのフランス語文化の地位や経済的格差が政治課題化していきます。1960年代頃からでしょうか。そうした中で、1977年には商業表示や教育においてフランス語を唯一の公用語とする法律がケベック州で採択されます(通称「フランス語憲章」と呼ばれ、現在でも有効です)。

それでもフランス語話者に不満は残り、1980年と1995年にケベック州独立の是非を問う住民投票が行われています。結果はいずれも僅差で否決されましたが、こうした運動は現在も存在し、フランス語保護と結びついているわけです。カナダという連邦国家では、かなりタッチ―な問題といえるのでしょう。

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