もっと健康で過ごしたい
もっともっと健康で過ごしたい。人は誰でもこう思うことでしょう。私だってそうです。では、どうやってこれを実現するのか。人生の後半に差し掛かった今、このことを切実に感じています。
もともと健康に生まれ、今まで病気らしいもしたことがない。こんな恵まれた方もることでしょう。逆に生まれたときから病気がちで、もしかしたら大人になるまで生きられないと言われて育った方もるかもしれません。
後者の方は前者の方を羨むかもしれません。でもきっと、前者の方も今ある自分の状態を前提に、もっともっと健康になりたいと思っていることでしょう。どんな状態にあっても、人はより一層の健康を求めるものです。
かくいう私もそうです。そう、健康に対する願望に際限はないのです。でもそれって、自然なことですよね。どんな人でも、その置かれている健康状態を前提にして、より健康になることを望むのです。
健康って、どういうこと
では一体、健康ってどういうことなのでしょうか。「健康」の定義は様々あろうかと思いますが、権威あるものといえば一般には世界保健機関(WHO: The World Health Organization)の憲章(Constitution)の前文に記されているものが挙げられます。そこでは健康を以下のように定義しています。
“Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.”
この英文に対し、外務省は訳文を提供しています。それが以下です。
「健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、單に疾病又は病弱の存在しないことではない。」
この手の文章にありがちな固い表現ですが、健康とは単に肉体的に病気になっていないといった狭い概念ではなくもっと幅広い概念で捉えるべき、といったところが大意なのでしょう。
心と体が良好な状態にあること
修辞学的な議論はさておき、自分が良好な状態にある、これが私にとっての健康の直感的な理解です。「自分の状態」は、自身の物理的な肉体の状態と精神の状態、この二つによって構成されると思っています。この限りではWHOの定義は私の理解とそれほどの違いはないのではと感じます。
ただ、「社会的福祉(social well-being)」が何を指しているのか。私の生活実感からは具体的なイメージが湧きません。人は社会的な生き物です。他の人との繋がりがなければ生きていくことに大きな困難が伴います。社会的福祉を強いて解釈すれば、そうした繋がりや関係性が健全に保たれている、ということなのだろうと思います。
私の経験や実感からは、他の人との繋がりや関係性が健全に保たれているか否かは、精神の健全性、換言すれば心の健康に直結します。従って、WHOの定義はさておき、肉体の状態と精神の状態、私はこの二つの概念で健康を捉えたいのです。
健全な精神は健全な肉体に宿る?
肉体の状態と精神の状態、換言すれば体と心ですね。そう、二つあると思うのです。そしてこの二つはお互いに密接に絡み合っているのではないでしょうか
格言に「健全な精神は健全な肉体に宿る」というものがあります。ここでいう精神とは心を、そして肉体とはもちろん体を表したものでしょう。心と体、若しくは肉体的な側面と精神的な側面。健康に関する二つの側面の存在を示すという意味においては、この格言は有意義です。
しかしながら、この日本語から解釈される意味や、それに敷衍した使われ方に関しては、私は全く賛同できません。そもそもこの格言の起源を紐解くと、後世での使われ方には多くの誤解が潜んでいると思われます。
心と体、絶対に心が先
起源に遡っての解釈や、後世の誤解の積み重ねについてここで詳しくは触れません(そのうち投稿記事にしてみます)。この格言の日本語を素直に解釈してみましょう。先に肉体、そう体があって、その体が健康であればそこには健全な精神、心が宿る、と理解できます。
やや捻くれた解釈をすれば、肉体が健全でなければ、健全な精神はその肉体に宿らない、ということが含意ではないかと思うのです。だから肉体を鍛えろ、鍛えるべきだ。このような思想の普及にこの格言が利用されたわけです(元は古代ローマの言葉だったのですが、私にいわせれば完全な誤訳です)。
心と体の関係をいうのならば、これは順番が逆で絶対に心が先です。心があって、その先に体がある、私はそう思っています。何故そう思うのか。このサイトの基本的な認識(というか私の認識)に大きく関係することなので、是非ここで説明させてください。
人それぞれに健康は違う
心も体も、そのあり方は人それぞれ、千差万別です。特に体、これは目に見えるものだけに、人はその違いを認識しやすく、また違いを表現しやすいわけです。そうした違いに対し、何が健全で健康であるのか。当然のことながら、これも人によって様々だと思うのです。
例えば長距離を走ることが苦手な人や、懸垂が1回もできない人もいるでしょう。これを、最低10キロ走れなければいけないとか、懸垂が最低10回はできなければいけないとか。そうでなければ健全な体ではないとか、そんなことを決められるわけがありません。
肉体なんて人それぞれ。生まれつき足の速い人もいれば遅い人もいる。筋骨隆々もあればガリガリもあるでしょう。体の一部が生まれつき不自由である場合もあれば、事故や病気で機能を失った人もいるでしょう。皆が色々、バラバラなのであって、その人なりの健全、健康な体があるのです。
その違いを認めずに誰かの体を健全ではないとして、宿っている心も健全ではないとする。そんなことは決してありません。何が健全で健康なのか、それはその人によって違います。また違って当然なのです。
心の安寧があって体の安寧がある
では、体に宿る心はどうなのでしょうか。健全な心って何でしょうか。もちろん、それも人それぞれでしょう。でも、心の安寧とでもいうのでしょうか、心が平穏でなければ、その影響は必ず体に現れるはずです。実際、私の限られた経験の中では、正にそうでした。
表現が難しいのですが、自分の現状を認め納得している心の状態、これを心が安寧な状態にあるということではないかと思います。そして、心の安寧があって初めて体の安寧も得られるのではないか、強くそう感じます。
そう考えれば、先に心です。心が健康でないと体の健康も維持できない。心と体の関係をそんな風に捉えています。両者の安寧の下、夢を掴むことを目指し人生を生き抜きましょう。